近年、「そろそろお彼岸なのに、まだ暑いですね」と言われることも増えました。しかし本来は「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように、秋の彼岸が近づくと朝晩に涼しい風が吹き、季節の変わり目の行事としても日本人の生活になじみの深いものです。
けれどもそもそもお彼岸ってなに?と改まって聞かれると、知らない人が多いかもしれません。お彼岸とは、そもそも何か?お盆とは何が違うのか、皆さんはご存じですか?
2025年の秋のお彼岸は、9月20日(土)から9月26日(金)までです。
「お彼岸」とは春分の日、秋分の日とその前後それぞれ3日間の計7日間を言います。毎年の春分の日、秋分の日は、前年に国立天文台の計算を元に国が設定しています。なぜ、国立天文台の計算を元にしているかといえば、ちょうど昼と夜の時間が同じになる日を春分の日・秋分の日と設定しているからです。
「彼岸」という言葉は、サンスクリット語で「彼岸に至った(成就する・悟りの境地に至る」という意味の波羅蜜(はらみた、はらみった、パーラミター)を「到彼岸(とうひがん)」と訳したことに由来します。遠いご先祖様も身近で亡くなった大切な人も、欲や煩悩から解放され穏やかに暮らしている世界が「彼岸(ひがん)」、迷いや煩悩に満ちた現実の世界が「此岸(しがん)」です。7日間の秋のお彼岸の期間中、私たちはお墓参りをしたりおはぎを食べたり、寺院で彼岸会(ひがんえ)という行事に参加したりします。
サンスクリット語から派生した「彼岸」ですが、インドにも中国にも彼岸の行事はなく、日本固有のものです。なぜでしょうか。
「お彼岸」は、我々日本人古来の風習や自然観、ご先祖様を崇拝する習慣と結びついたと考えられています。まず、農耕民族であった日本人にとって太陽の恵みは大切なものでしたから、昔からお日様には畏敬の念をもってきました。今では聞きませんが、昔、兵庫県や京都府では彼岸の中日に太陽とともに一日歩く「コンニチサン」と呼ばれる行事があったそうです。
また、春のお彼岸はそろそろ稲作が始まり、秋のお彼岸はもうすぐ稲刈りなどが始まるころですね。地方によっては豊作を祈願する行事があったり、春のお彼岸にはぼたもち、秋のお彼岸にはおはぎを作り、ご先祖様にお供えをしてお墓参りをする風習がみられるようになりました。
貴族階級ではどうでしょうか。「彼岸」という言葉は『宇津保物語』や『源氏物語』にみられ、平安時代にはすでに貴族階級の間で「お彼岸」という風習が浸透していたことがわかります。
仏教、とくに浄土宗では西の方向に阿弥陀仏が住む浄土があると示されました。西方浄土と呼ばれます。太陽の沈む西の方向を見ながら亡くなった人を思い出したり、自分の行く末を考えたりしたのですね。合せて、寺院が行う仏教行事として彼岸会が行われるようになりました。浄土宗における瞑想法のひとつに「日想観」という修行があります。西に沈む夕日を観想し極楽浄土を思い浮かべる修行です。真西に太陽が沈む春分・秋分の日には浄土宗の彼岸会の行事として行われています。
日本のお彼岸は、太陽信仰や農耕・民俗行事と仏教がうまくマッチングして独自の風習として定着してきたのですね。
ところで、お盆とお彼岸はどちらもお墓参りをするなど似ていますが、どう違うのでしょうか。お盆はご先祖様を自宅に迎えて供養する期間なので、お墓にご先祖の魂をお迎えに行き、自宅に連れ帰ります。お彼岸は、彼岸から此岸に来たご先祖様をお墓に出向いてお参りをするという違いがあります。
お彼岸中日は、昼の時間と夜の時間が同じことから彼岸(あの世)と此岸(この世)の距離が一番近く、ご先祖様がこの世に来やすく、ご先祖様への想いも通じやすいとされています。
夕日が沈むその先に極楽浄土があり、ご先祖様や大切な人がそこで幸せに暮らしている、自分も死んだらそこへ行きたいと人々は考えました。極楽浄土を想い西に沈む太陽を見ていた昔の人たちにとって、お彼岸の中日に真西に沈む夕日は、まっすぐ極楽浄土の入り口へ通じる道として、またまっすぐご先祖様がこちらに向かってくる道として、燦然と輝いて見えたのかもしれません。
お日様信仰から次第に生まれてきた西方浄土への信仰は、どのように日本人に根付いていたのでしょうか。物語や資料を少し紐解いてみましょう。
・日想観にみる西方浄土信仰
日想観にみられる西方浄土信仰は、能の『よろぼし』や、『よろぼし』や説教節から派生した歌舞伎の『摂州合邦辻』で描かれています。『よろぼし』では、父に追放され、目が見えなくなった俊徳丸が日想観に入ります。観たことのある難波江の絶景を思い浮かべますが、その景色に惹かれて一時は気が狂ってしまう俊徳丸。しかしその後父と和解。家に戻ることができます。『摂州合邦辻』では日想観のシーンは上演されることは少ないのですが、物語の根底には西方浄土信仰があります。
・西へ西へ。極楽浄土を目指して滅亡した平家の人々
『平家物語』は平家一族の繁栄と滅亡の物語ですが、登場人物の多くが死を覚悟すると極楽浄土への往生を願い、西に向かって入水していきます。西へ西へと下っていく平家一族はついに壇之浦の海に散っていきます。「私をどこに連れていくのか」と尋ねる8歳の安徳帝に二位の尼は「まずは東に向かい伊勢大神宮にお暇を申し、その後西方浄土のお迎えを受けるために、西に向いて御念仏をお唱えください」と言い、その通りに行った安徳帝を抱いて「波の下にも都がございます」と言って海中に沈んでいったのはあまりに有名ですね。
・「法然上人行状絵図」に残る熊谷直実の歌
平家物語に出てくる熊谷直実は、悲劇の武将です。一ノ谷の合戦で平敦盛を討ちとりましたが、ちょうど息子と同じ歳ほどの少年を討ったことを苦に、後に出家をしました。
その熊谷直実の遺した歌が「法然上人行状絵図」に残っています。
「浄土にも剛のものとや沙汰すらん 西に向かひて後ろ見せねば」
これは、「極楽浄土に行ってもあの男は勇猛な武士だと評判になるだろうか。私がずっと西に向かったままで、決して阿弥陀如来に背中を見せないでいるから」という意味です。
京から関東に戻る際、直実はずっと鞍を前後さかさまにおいて、阿弥陀如来に背中を見せないように馬をひかせていたそうです。その思いの強さには驚かされます。
昔の人にとって、夕日というのはただ眺めるだけではなかったのです。西の方向にあると思われていた極楽浄土への入り口として存在しており、現代のわれわれが夕日を美しいものと見るより、もっとずっと強い思いを抱いていたのですね。
秋のお彼岸は農民にとっては、暑さも和らぎホッと心身が落ちつく時期でした。現代人にとっても、酷暑に終わりが見え涼しい日々を心待ちにするころです。そんなときにお彼岸という行事があり、他の国にはない形で定着していったのは至極当然のことだったのかもしれません。
今年のお彼岸のお墓参りは、暑さの残る日中は避け、夕方に訪れて沈む夕日を眺めてみてはいかがでしょう。
そこが真西であり、まっすぐ極楽浄土へと続く道と思うと、いつものお墓参りと違ってご先祖様が近くに思えるのではないでしょうか。大好きだった大切な人、父母や祖父母、話でしか聞いたことのない曽祖父や曾祖母、そしてさらに連なるご先祖様。生きて命をつなげてくださったからこそ、今自分が存在しているという奇跡に、改めて向かい合ってみましょう。心を整えてお墓のそうじを行い、夕日を眺めて今は亡き人々と心を通わせて感謝を伝えてみませんか。
(取材・文/宗像陽子)