2007年に発売した自叙伝『ホームレス中学生』が、200万部を超える大ヒットとなったお笑いコンビ・麒麟の田村裕さん。中学2年生の頃、実家が差し押さえとなり、お父様は「解散」とだけ告げて蒸発。お母様は田村さんが小学生の頃に他界されていたため、お兄さん、お姉さん、田村さんの兄弟3人でホームレスになりながらも生き抜いてきたエピソードは、日本中で大きな反響を呼びました。そんな田村さんですが、著書が話題となったことをきっかけに、とある番組内で15年ぶりにお父様と再開。お父様が他界されるまで、たくさんの親孝行をしてきました。
『ホームレス中学生』が話題になったことをきっかけに、とあるテレビ番組がお父さんの居場所を見つけてくれたんです。それで、僕たち兄弟とアパートの管理人さん、テレビのクルーで、夜の10時くらいにお父さんが住んでいる家に駆けつけました。ただ、借金もあったので、人が訪ねてくることをすごく警戒していて、はじめは全然出てきてくれなかったんですね。それで、兄弟三人でそれぞれ自分の名前を言って、「お父さん、お父さん」って10分くらい呼び続けて、それでようやく扉を開けてくれたんですけど、顔が見えた瞬間に、いきなりお父さんとお姉ちゃんが抱き合って。あれだけ警戒していた父親が、出てくるなり0コンマ1秒くらいで、お姉ちゃんと互いに呼び合いながら抱き合っている。僕はと言えば、当事者なんですけど、どこか感情が追いついていなくて、「なんか、ほんまにすごいものを見ているぞ」という感じで、その光景を眺めていました。
お姉ちゃんにしても、本当はいろいろな葛藤もあったとは思います。でも、僕たちの中には「もうお父さんは生きてはいないのでは‥‥」という思いがあったので、とにかく生きていてくれたことへのよろこびだけで、すべてが吹き飛んだ感じがしましたね。それまでの15年間、街中でホームレスの人を見る度に、「もしかしてお父さんじゃないか」と顔を覗き込んでいた自分もいたので。
うちのお父さんは、もともと情緒が見えづらくて、何をよろこんでいたかは分からないんですけど、ただ「家を買って欲しい」とお願いされたことがありました。僕としては中古のマンションで良いかなと思っていたんですけど、「新築の一軒家がいい」という我儘を言われて。当時は僕も若かったので、その家があれば、みんなが帰ってくると踏んだんかなと思っていたんですけど、たぶんそうじゃない。お父さんはきっと、お兄ちゃんや、お姉ちゃん、そして僕に何かあった時に、帰ってこられる場所をつくりたかったんじゃないかなと、今となっては思うんですね。だから、一方的な親孝行というよりは、持ちつ持たれつの関係なのかなと感じています。
自分も子供ができて、父親になったことが大きいのかもしれません。先程言った通り、お父さんは感情の見えにくい人なんですけど、初孫を連れて行った時は、やっぱりとても嬉しそうで。娘を抱っこしてくれたら、それがすごく手慣れていて。僕なんかよりも、遥かに抱っこが上手いんです。それを見た時に、「僕もこの人に、こうやって育てられたんだ」と心に刺さるものがあって。正直、僕の記憶にあるお父さんというのは、まったく家に帰ってこない父親らしくない人物だったんですけど、それが時を経て、「ああ、この人も父親なんだな」と思ったら、同じ父親としていろいろと気持ちが理解できるようになりました。
うちは子供が三人いるのですが、長女が2歳で、次女は1歳くらいで、一番下の長男はまだ生まれていなかったですね。だから、お父さん、子供たちからしたらお爺ちゃんですけど、その記憶はないと思いますね。
そうですね、マイナスな部分だけを見れば、そういう印象になると思います。でも、その時は、「もし君たちがお父さんから愛情を感じたとしたら、それは、お爺ちゃんからもらったものなんだよ」と伝えたいですね。やっぱり、あの経験があったからこそ、僕は家族というものの有り難みを常に感じていますし、そのコミュニティをどうすれば維持できるのか、みんなが幸せでいられるのかをいつも考えているので。
とても優しくて、僕はお母さんのことが大好きだったんですけど、癌で亡くなってしまって。幼い頃は、その事実がきちんと受け止められなくて、そのうちお母さんが帰ってくるような気がしていたんです。それが中学3年生の頃、お世話になった人の死に直面して、亡くなった人は帰ってこないという事実を唐突に突きつけられて。それをきっかけに、生きる気力が萎んでしまったんです。中学生でホームレスになったり、人生は辛いことばっかりだと。こんな辛い思いをして生きているくらいなら、早く天国に行って、大好きなお母さんに会いたいと思うようになりました。そんな状態で高校には進学したものの、無気力だったので、学校もサボりがちになってしまって。
ある日の放課後、担任の工藤先生とたまたま教室で二人きりになった時に、「悩みがあるなら話して」みたいに言われて。僕がサボりがちだったのもあるし、中学生の時の経験も伝わっていたのかなと思うんですけど。正直、最初は学校の先生に話してもしょうがないと思ったんです。でも、工藤先生は普通の大人とはまったく違う感じの人で。この人になら話しを聞いてもらえるかもしれないと思って、自分が亡くなった母に会いたいと思っていることを正直に打ち明けました。先生は驚きながらも僕の話しを親身になって聞いてくれて、明日までに手紙を書いてくるから読んで欲しいとおっしゃられて。
先生の手紙は、僕の気持ちにすごく寄り添ってくれたもので、本当に素直に受け入れることができるものでした。その中で、僕の価値観を180度変えてくれたのが、お母さんに対して「今からできる親孝行があります」という言葉でした。それは、「田村くんが立派に生きて、幸せになることです」と。それを読んだ時、本当に衝撃を受けて。それまで僕は、早くお母さんに会うために死んでしまいたいと自分のことばかり考えていたけど、あの優しいお母さんが、僕が死んでしまうことをよろこんでくれるはずがないと初めて気が付いたんです。そこからは自分でも恥ずかしくらい単純に、「今からできる親孝行があるなら、それはやらなあかんな」と、本当に別人になったように前向きになりました。
つながっていますね。僕は漫画がとても好きなんですけど、昔、少年マガジンに『Dr.Noguchi』という野口英夫の物語が連載されていて。その漫画の冒頭数ページは、野口英夫のお母さんの話なんですよ。それを読んだ時に、自分が有名になれば、もう居なくなってしまったお母さんのことを、みんなに知ってもらえるんだと思って。でも、僕は勉強ができるわけじゃないから、野口英夫みたいな研究者にはなれない。じゃあ、どうすると考えて選んだのが、お笑いの世界でした。その結果、『ホームレス中学生』で、多くの人にお母さんのことを知ってもらうことができました。
あまり偉そうに言うのは憚られるのですが、相手の立場に立って、一度、すべての言葉を受け入れてみることではないでしょうか。家族の中のギスギスというのは、大抵、身内だからこその我儘に対する苛立ちとか、煩い小言に対する拒否反応から始まると思うんです。でも、家族間のそういった言葉って、必ず相手をもっと良くしてあげたいという愛情から出ていると思うんです。それに対して、もちろんイラッとしてしまうことは誰にでもあるんですけど、でもそこは、味方である人が、味方であるがために言っていることなんだと考えて、自分の意地とかを一旦脇に置いて受け入れてみる。そうすると逆に、自分の言葉に対しても、相手が耳を傾けてくれるようになってくるんです。これは親子ではなく夫婦の話ですが、結婚した当初、とにかく僕の行動に対して奥さんから逐一ダメ出しをされていて。例えば、僕が家の中をドタバタ音を立てて歩くのをやめろとか。でも、その原因というのは、家のスリッパを犬が齧るからという理由で奥さんが捨ててしまったことにあると僕は思っていたので、「俺のせいちゃうやん」って、まったく受け入れなかったんです。そうすると、他のことでも一から十まで敵対するようになってしまって。これは良くないと思って、自分が悪いかどうかは関係なく、とにかく一度、ドタバタ音を立てないように細心の注意を払って歩いてみよう、奥さんの言葉を受け入れてみようと思ったんです。そうしたら、段々と喧嘩も減っていって、逆に僕のお願いも聞いてもらえるようになって。その時に、とにかくまず自分が「あなたの味方なんだ」ということを態度で示すことが重要なんだと気づきました。これってたぶん、夫婦だけでなく、親子でも一緒だと思うんですよ。だから今、もし両親が生きていてくれたら、すごく良い親子関係を築けると自信がありますね。